2009年06月26日

油田において原油を採掘するために使う井戸のこと

油井(ゆせい)とは、油田において原油を採掘するために使う井戸のこと。地上もしくは海上から油層、つまり原油を含有する地層にボーリング穴をうがちパイプが入れられる。このパイプを通じて原油が取り出される。

21世紀初頭現在、一般的な油井掘削に使われているロータリー式掘削法は当初、水井戸掘りとして1841年(または1845年)にフランス人のフォーベルによって発明され、フランス人の土木技師レショットが実用化した。19世紀から20世紀にかけてそれまでの衝撃式掘削方式がロータリー式に取って代わられた。1901年にアメリカ人キャプテン・ルーカスがテキサスのスピンドルトップで初めて油田の掘削に使用し、大量の原油を得た後にアメリカを始め世界各国で使用されるようになった。
スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

最新科学的知見とデータ分析、電気検層、人工衛星による地質写真、人工地震探査、地上の目視探査、海上からの音響探査などで油田の存在の可能性が高いと思われるサイトを特定する。全ては地質学者の仕事である。

三次元地震探鉱技術では人工地震探査や音響探査のデータをコンピュータの高速演算によって解析することで、地下の立体的な内部構造が手に取るように判るようになったためにこれまで見逃されていた油田が見つかるようになっている。

また、油の汲み出しをはじめてからも三次元地震探鉱を行い続けることで地下での原油の移動状況が判るため、地下に残る原油を減らすことが可能となっている。これは三次元地震探鉱に時間軸が加わるために四次元地震探鉱技術と呼ばれる[1]。


2009年06月10日

有機溶媒抽出、あるいはケミカル・メソッド

有機溶媒抽出、あるいはケミカル・メソッド(chemical method, chemical process)と呼ばれる。1906年にドイツで開発された、世界最初の脱カフェイン法も有機溶媒抽出である。

蒸気で膨潤させたコーヒー生豆を抽出槽に充填し、そこに有機溶媒を通してカフェインを抽出する。十分な水分の存在下では、水と有機溶媒との間で成分の分配が起こるが、カフェインが比較的疎水性が高いため有機溶媒側に多く分配されることを利用して、選択的に抽出除去を行うものである。
河川のお話
大阪情報
欧米の美術
ことわざ集
茨城の情報
せの付く言葉
惑星のお話
香り・情報
コインの秘密
知って・マナー
泌尿器科
棚田
弓道
四国
水族館
フラメンコ
昆虫
医用生体工学
上場
バイアスロン

用いる溶媒には、
カフェインを十分に抽出可能であることと
カフェイン以外の水溶性成分の損失が少ないこと
抽出後に溶媒除去が容易であること
抽出中にカフェインやその他の分子と化学反応を起こさないこと
が要求され、1.と2.の条件を満たすために非極性溶媒であること、3.の条件のために低沸点であることが必要とされる。この条件を満たすものとして、以前はベンゼン(沸点 80.1℃)、クロロホルム(61-62℃)、トリクロロエチレン(86.7℃)などが用いられていたが、これらの有機溶媒の残留する可能性が問題視されたことから、現在はより沸点の低い非極性溶媒としてジクロロメタン(39.75℃)が用いられることが多い。

安価な方法であるものの、カフェイン以外の成分の損失が大きいため風味で劣ることと、有機溶媒を直接生豆に接触させるため消費者が安全面での不安を抱きやすいという短所がある。

水抽出 [編集]
水抽出、ウォーター・メソッド(water method, water process)、あるいはより具体的な方法の呼称からスイス式水抽出法(Swiss water method)と呼ばれる。1941年に開発され、翌々年の1943年にはアメリカで特許取得されている。

コーヒー生豆を充填した槽に水を通してカフェインを水溶性成分ごと抽出し、続いてこの抽出した水相から有機溶媒でカフェインを抽出除去する。カフェインを除いた後の水相は、残留する有機溶媒を除いた後で再び生豆の槽に循環され、有機溶媒で抽出されなかったカフェイン以外の水溶性成分が再び生豆に戻される仕組みである。

この方法は

有機溶媒が直接、生豆に接触しないために安全性が向上すること
水抽出された成分のみから有機溶媒で抽出されるため、二段階の選択となり、カフェイン以外の成分の損失が抑えられる
用いた有機溶媒の再回収が容易であるため経済的である
という利点がある。このため、水抽出法は最も多く採用されている。

超臨界二酸化炭素抽出 [編集]
超臨界二酸化炭素抽出は、超臨界流体の状態にした二酸化炭素でカフェインを抽出するもの。デカフェに応用することは1974年に開発されており、比較的新しい方法である。

物質は通常、気体、液体、固体の三態をとることが多いが、一定以上の圧力と温度を加えることで、気体と液体の両方の性質を兼ね備えた、超臨界流体と呼ばれる状態になる。この超臨界流体は気体の持つ拡散性と液体の持つ溶解性を併せ持つため、コーヒー豆内部への浸透性と成分の抽出効率の両方に優れている。また温度と圧力の条件を変えることで、親水性〜疎水性のさまざまな成分の抽出に適した条件を選択することが可能である。

二酸化炭素は31.1℃以上かつ73.8気圧以上の状態で超臨界二酸化炭素になる。この条件は他の物質の場合より常温常圧に近く(例えば水では374℃以上かつ220気圧以上)その生成が比較的容易であることと、超臨界状態でも他の物質との化学反応を起こしにくい(超臨界水は極めて反応性が高い)という特性を持つ。また抽出後、常温常圧に戻せば二酸化炭素の除去は極めて容易であり、万一残留してもその毒性を考慮する必要がない点、廃液処理の必要がない点、有機溶媒のような燃焼性がなく火災の心配がいらない点など、さまざまな点において有機溶媒抽出法の欠点を補った、極めて優れた脱カフェイン法だとされている。

カフェインの効率的な抽出除去のため、圧力、温度と豆の湿潤処理方法がさまざまに工夫されている。選択的な抽出としては、前処理として生豆を蒸気で膨潤させて水分量を調整することと、150?180℃、120?180気圧という条件などの至適条件が検討されている。

2009年06月07日

スス(煤)は、有機物が不完全燃焼を起こして生じる

スス(煤)は、有機物が不完全燃焼を起こして生じる、炭素の微粒子(黒色)、または、建築物の天井付近にたまる、きめの細かいホコリ(灰色)のこと。後者であっても、照明に油脂を燃料とする照明やロウソクを暖房に囲炉裏や暖炉を使った時代では前者が多く含まれていたし、現代でもこうした照明を宗教儀式に用いる仏教寺院やキリスト教会ではそうである。ここから、室内の汚れを象徴するものとして、ススが使われる例もあり、スス払いなどはこれにあたる。

炭素の単体としてのススは、実はその実体がよくわかっていない。炭素の単体としてはよく知られているものにダイヤモンドと黒鉛があり、最近ではこれにフラーレンが加わっている。ススは物質としては黒鉛に近いが薄膜状にならない。これは、炭素原子が互いに結合してゆく際に、フラーレンの様な構造に発達しかかって完全にその形になれず、不揃いの団粒状になったためとの説がある。
観光 脂肪吸引 エージェント 趣味 分譲 家具 インポ 健康食品 抜け毛 通信販売 外国語 遊園地 通信教育 関東 エイジ 旅行代理店 フレグランス フランチャイズ 住まい 抜け毛 占い リラク 文房具 語学 スポーツ 生涯学習 交通 豊胸 中国四国 脱毛 起業 料理 メイク 資産運用 調査 抜け毛 リラク リラク ショップ 音楽 癒し 予備校 宿泊施設 インプラント 地域情報 エイジ 信託 運送 興信所 プレゼント


ススは自動車や工場の排気ガスにも含まれ、あらゆるものに降り注ぎ、時に洗濯物を汚したりと汚濁の原因となるので嫌われる。それ自身には毒性はない。しかし、他の有害物質を吸着することで、人体に与える影響が大きくなるとの説もある。

なお、書道で使われる墨はススを原料として作られる。小さな小屋の内部でロウソクや灯明を焚き、内部にたまったススを膠などで固めたものである。

2009年04月24日

癒し(いやし)、

癒し(いやし)、ヒーリング (healing) とは、心理的な安心感を与えること。またはそれを与える能力を持つ存在の属性である。

聖書の日本語訳の中にイエス・キリストが人々を「癒した」という記述が何度も出てくるように、本来は宗教的な奇跡的治癒を行う動作の意味で使用されており、「癒し」という名詞での使用は一般的にはあまり使用されていなかった。

1980年代を中心とした「癒しブーム」以降に頻繁に使用される「癒し」という言葉は、宗教学や宗教人類学で、未開社会の暮らしを続ける人々の間で呪術医が、病に陥った人を治す悪魔祓いの行為について言ったものだという。上田紀行の『覚醒のネットーワーク』(かたつむり社 1990年)で、セイロンの悪魔祓いについての言及の中で使用されたのが、この言葉の今日のような用法での最初だという。こちらの意味では、なんらかの原因で、地域社会や共同体から、孤立してしまった人を再び、みんなの中に仲間として迎え入れること、そのための音楽や劇、踊りを交えて、霊的なネットワークのつながりを再構築すること、これこそが癒しだという。

サルトルおしゃれな雑貨COM
コリアス最新の医学サイト
シーズー買物王COM
ホームステイ・音楽関連まなび教育情報
ホテル・キャンプ場関連旅行スポット検索エンジン
ペンタゴル美容整形全国情報ガイド
ユトリロ ビジネスワールド情報
ヘキセンライフスタイルポータル情報
キリン健康づくりCOM
ディアモント買物隊COM

現在では、そうした言葉の出自が及びもつかないくらいの多様で、曖昧な用い方をされている。その用法のあらましを鑑みるに、ストレスやうつ病傾向など、過度の緊張や慢性的な心的疲労を蓄積させている人に、さまざまな手法で、一時的、あるいは中短期的なストレス軽減のための手段を提供する行為、また手段、そのためのアイテムのさまざまなものを総称して、癒し、癒しグッズという言い方をしている。こちらでも、自分を取り戻す、自分の居場所、自分が拠り所とみなす人々の元にあることは同様の重要性を持っている。

癒しの効果と時代のニーズ
癒しの持つ力は心身ともに持続的・恒久的・継続的な安らぎの効果をもたらす。過激さの持つ力は、瞬間的・一時的なもので、しかも往々にして強い心的刺激を伴うので心身に悪影響を及ぼす可能性がある。

人間には心身ともに癒し要素を持つものが本質的には受け入れられる。特に心身にストレスがたまっている場合などは過激さは不適切である。バブル時代は白熱した刺激が好まれる傾向もあったが、バブル崩壊後、社会が不安になってくると過激な刺激はよどみ嫌われた。元々、過激さには人体危険が伴うのが常であり、それを求める傾向は一種の自虐行動である。心理学的に人間が本質的に求めているのは安らぎと平穏であり、もともと人間は攻撃的な要素を好まない。もしくは極力避けることで自己防衛を図る生き物なので、癒しを求めることを攻撃的要素を避ける意味でも非常に大きな意味を持つと本能的に知っている故の現象である。

2009年04月22日

生化学

生化学(せいかがく、biochemistry)は生命現象を化学的に研究する生物学または化学の一分野である。生物化学〈せいぶつかがく、biological chemistry〉とも言う。

物質的観点で生命現象をとらえるならば、生体は多種多様な有機化学物質の集合体であるばかりでなく、それらの化学物質は相互に連携し、調和がとれた物質の独立した再生生産システムを形成している。すなわち、生体物質の変化〈代謝〉を司る主体も生体物質であるばかりではなく、それら主体となる物質の構造情報〈遺伝物質〉や製造プロセス〈たんぱく質合成系〉も生体物質で構成されている。あるいは物理化学的な平衡では自然には生じないような生体物質を生産する為の多段階の反応経路〈代謝経路〉とその原動力となる化学ポテンシャルを生産する仕組み〈エネルギー代謝〉や遺伝物質を複製することで自己増殖してゆく仕組みなど、緻密で繊細な化学物質システムが構築されている。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル


したがって広義の生化学は、生物学の一サブジャンルというよりも、生命現象を化学的側面から研究する一つの切り口と捉えられる。あらゆる生体分子と生物、その環境が対象となりうる。現在の生物学で生化学的と言うときは、生体から目的の分子を取り出して試験管内 (in vitro) で実験を行うこと指すことが多い。生体内 (in vivo) で行う場合は生理学的という。

生物物理学、細胞生物学、分子生物学、などとも関連は深く、また応用化学としては生理学、生物工学、薬学、免疫学、遺伝学などとも連携して研究される為に、生化学とそれらの学問分野との境界は曖昧である。

生化学の研究対象は生体物質全般であるが、中でもタンパク質、核酸、糖質など生体由来の高分子は生化学システムを構成する主役であり、今日でも生化学研究の重要な研究対象の源泉である。また、生体膜の主成分である脂質は細胞および細胞内器官を形成するだけでなく生体物質間の情報伝達の役割も果たしており、生化学の研究対象としても重要である。

生化学の夜明けは、1833年、酵素の1つジアスターゼ(アミラーゼ)がアンセルム・ペイアン (Anselme Payen) によって発見されたことだろう。1828年にフリードリヒ・ヴェーラー (Friedrich Wöhler) が尿素の合成に関する論文を発表し、人工的に有機物が合成できることが示された。それまで有機物は生体内でのみ作ることができると考えられていた。20世紀中頃にクロマトグラフィーやX線回折、NMR、放射性同位体標識、電子顕微鏡、分子動力学シミュレーションなどが開発されると、生化学は急速に発展する。これらの技術は多くの分子や代謝経路の発見と解析を可能にした。

今日、生化学の知見は遺伝学から分子生物学、農業から医学まで多くの分野で用いられている。最初の生化学の応用は、おおよそ5000年前、パンを膨らませるために酵母を用いたことにさかのぼるだろう。

研究対象
生化学が研究対象とする生化学プロセスは大きく二つに分けるならば、物質代謝と遺伝子発現である。前者は今日でも生化学の分野であるが、後者は1980年代以降急速な進展により分子生物学あるいは分子遺伝学といった一大学問領域を形成している。

生体内の物質代謝のほとんどには酵素の関与が見られる。逆に酵素が有する基質特異性により、代謝反応の各段階にはそれぞれ固有の酵素が関連しているので物質代謝を研究することは裏返して見るならば酵素を研究することでもある。酵素タンバク質の発現や化学物質を介した情報伝達システムによる酵素機能の調節は分子生物学でも研究される。

「セントラルドグマ」として知られる遺伝子発現機構は1950年代にワトソンとクリックが提唱したDNAモデルに起源を持つ、遺伝子発現機構の主体であるDNA、RNA、リボゾーム・タンパク質、リプレッサー・タンバク質の存在は早くから研究されているが、その機能や調節機構は複雑かつ精密であり、今日でも分子生物学やバイオインフォマティクスの重要な研究テーマである。

生化学実験
生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。21世紀に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。

一般に消化酵素やホルモンのように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。

DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、界面活性剤を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。

目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による透析が行われたが、20世紀後半にはゲル濾過クロマトグラフィやアフィニティクロマトグラフィにより目的物を精製する。

代謝による生体内物質の移動や変化の追跡にはトレーサー物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、放射性トレーサーの場合は専用実験施設が必要な為、今日では抗体染色やELISA法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている。また、微量危機分析技術の進展によりMALDI法などの質量分析でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である。

イオンチャネルの研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行うパッチクランプの実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。

1990年代以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から蛍光顕微鏡で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。

2009年04月05日

公会議の取り扱ったテーマ

公会議のテーマは多岐にわたっているが、ここでは主なものをあげる。

教会論  [編集]
公会議の目に見える形でのもっとも大きな成果となったのが、中世以来の懸案であった教会論の確立である。これは『教会憲章』にみることができる。

第1章「教会の秘儀について」では、カトリック教会が唯一にして聖であり、普遍的なものであること、イエスがペトロに与えた権能を引き継ぐ教皇と司教たちによって治められる組織であるといいつつ、カトリック教会以外にも聖化と真理の要素が数多く見出されると補足する事で独善的傾向を避けている。

第2章「神の民について」では神が個人でなく人々のグループを聖性に招いていること、その祖形がユダヤ民族に見られることを示す。また、カトリック教会に属さないキリスト教徒たち、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちも唯一の神において互いに結ばれていると言明される。

第3章「教会の聖職位階制度、特に司教職について」では第1ヴァティカン公会議の議論を補完する形で教皇職の意味と司教団の団体制原理が示される。

以下、第4章「信徒について」、第5章「教会における聖性への普遍的召命について」、第6章「修道者について」、第7章「旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について」、第8章「キリストと教会の秘儀との中における神の母、処女聖マリアについて」と続くが、特にその中でそれまで聖職者・司祭は信徒より聖性のレベルが高いとみなしてきた教会が「すべての人が聖性に招かれている」という表現をしたことが革新的であるといえる。特にキリスト教の2000年の歴史の中で初めて信徒が公式文書の中で言及されたことは特筆に価する。また、第8章のマリア論に関する部分は元来独立した文章になる予定であったが、エキュメニズム的観点とカトリック以外のキリスト教に対して攻撃的になってはならないという配慮からこの中に組み込まれた。

典礼 [編集]
この公会議の後、外見的な部分で教会が変わったと人々を実感させたのは典礼の改革であった。この精神は『典礼憲章』にくわしい。教会は典礼においてすべての人が積極的にこれにかかわることが求められるとして、多くの改革を実行した。たとえばそれまでほとんどラテン語で行われていたミサおよび典礼の諸儀式が各国語で行われることになった。また司教の判断のもとに(全世界で一様でなく)その地域文化に根ざした典礼のあり方が模索されることになった。(典礼の見直しにともなって、レクイエム・ミサにおける続唱(「怒りの日」など)も廃止された。歌詞の内容があまりにも最後の審判への不安や恐怖を強調しすぎており、本来のキリスト教の精神から遠いというのが理由であった。)

聖書と啓示  [編集]
カトリック教会は古代以来一貫して重要視してきた「聖書と聖伝(聖なる伝承)」を保持しつつも、その現代世界への適応を目指した。具体的には聖書の各国語訳のさらなる研究が推奨された。そして聖職者と信徒にとっての聖書研究の重要性が改めて認識された。それまでのカトリック教会は聖書の研究は聖職者がすることであるとみなし、信徒がすすんで研究することはあまり推奨していなかったのである。

司教のあり方について  [編集]
教会における司教の位置づけも新しい観点によって照らしなおされた。特に司教の団体制という考え方がこの公会議の精神の特徴になっている。これは教皇と司教団がペトロと使徒たちのように1つとなって教会を司牧していくという考え方である。また、公会議以降それぞれの地域で司教たちが集まって会議を開くようになった。これがシノドスである。ただ、シノドスでの議決については三分の二以上の賛成と聖座の認可によって初めて有効性を持つということが定められている。

公会議の影響 [編集]
アジョルナメント(現代化)をテーマに行われた公会議は、教会の現代世界への適応にかける強い意気込みを示すことになった。この会議での決定事項は以降、パウロ6世によって実施が推進され、ヨハネ・パウロ1世からヨハネ・パウロ2世へと公会議理念の実践がすすめられていくことになる。

公会議文章一覧 [編集]
『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)
『教会憲章』(Lumen Gentium)
『神の啓示に関する教義憲章』(啓示憲章 Dei Verbum)
『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)
『広報機関に関する教令』
『東方カトリック諸教会に関する教令』
『エキュメニズムに関する教令』
『教会における司教の司牧任務に関する教令』
『修道生活の刷新・適応に関する教令』
『司祭の養成に関する教令』
『信徒使徒職に関する教令』
『教会の宣教活動に関する教令』
『司祭の役務と生活に関する教令』
『キリスト教的教育に関する宣言』
『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』
『信教の自由に関する宣言』

ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

2009年03月21日

原宿駅側部乗降場

本駅の代々木寄り、貨物線線路から分岐する形で、天皇専用の駅である原宿駅側部乗降場(はらじゅくえき そくぶじょうこうじょう)が設置されている。

天皇が利用するいわゆる「お召し列車」の発着に使われ、「宮廷ホーム」の通称で知られている。

1926年(大正15年)8月、当時病弱だった大正天皇が静養に出発するために建設された。敷地は現在財務省と東日本旅客鉄道の共同所有である。この施設を利用できるのは天皇のみで、他の皇族は単独での利用ができず、随行時のみに限られている。このホームが利用される際のみ当駅は運転取扱駅へと一時的に昇格する。

国鉄時代には、昭和天皇がこのホームを利用する場合、三権の長(内閣総理大臣・衆議院議長・参議院議長・最高裁判所長官)、国務大臣、国鉄総裁、東京南鉄道管理局長が「お見送り」をする事となっていた。

昭和時代には天皇・皇后が那須や須崎にある御用邸や全国植樹祭などへ向かう(行幸啓)場合などに運行される専用のお召し列車が年に数回発着していた。

平成への改元以降、今上天皇が鉄道で行幸啓の際は東京駅から新幹線を利用する事が多くなったためにお召し列車の運行自体が激減し、2001年8月31日の第52回全国植樹祭への出席の際に使われたのを最後に今日まで利用されていない(2009年1月現在)。

但し、良子皇太后が生前に須崎・那須両御用邸へ静養のために向かわれる際にはこの原宿駅側部乗降場発の専用列車に乗車されていた。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

なお、この施設では過去に車両の展示(201系の試作車登場時やパビリオン列車「アメリカントレイン」の出発式)などのイベントが行われた事もある。

駅周辺 [編集]
※東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・副都心線の明治神宮前駅と連絡業務を行っている。
※原宿・神宮前の項目も参照。

明治神宮
代々木公園
明治通り
竹下通り
流行・ファッションの発信地として有名であり、現在は修学旅行の定番コースの一つとなっている。
裏原宿
表参道
表参道ヒルズ(同潤会青山アパート跡地)
国立代々木競技場 - 表参道口から南西へ徒歩5分
渡辺プロダクション本社

路線バス [編集]
「原宿駅」停留所
都営バス
早81:早大正門 - 東京女子医大 - 四谷三丁目 - 千駄ケ谷駅 - 原宿駅 - (→渋谷区役所) - 渋谷駅
「原宿駅入口」停留所
渋谷区コミュニティバス「ハチ公バス」
春の小川ルート:渋谷区役所(代々木八幡・新国立劇場・本町区民施設・笹塚駅経由)/渋谷区役所
神宮の杜ルート:渋谷駅ハチ公口(表参道駅・千駄ヶ谷駅・参宮橋・代々木駅経由)/渋谷駅ハチ公口
「明治神宮」停留所
渋谷区コミュニティバス「ハチ公バス」
神宮の杜ルート:渋谷駅ハチ公口(表参道駅・千駄ヶ谷駅・参宮橋・代々木駅経由)

歴史 [編集]
1906年(明治39年)10月30日 - 日本鉄道の駅として開業。同時に貨物営業も開始。駅舎は現在位置より代々木駅寄りにあった。
1906年(明治39年)11月1日 - 日本鉄道が国有化、国有鉄道の駅となる(1909年10月12日に山手線所属駅となる)。
1926年(大正15年)8月 - 側部乗降場が開設。病弱であった大正天皇が静養に出発する専用の目的で建設された。
1941年(昭和16年)2月1日 - 貨物取り扱いを廃止。
1952年(昭和27年)10月14日 - 鉄道開業80周年を記念して側部乗降場の一般公開を実施。復元された北海道最初の蒸気機関車「義經」「しづか」が展示された。
1972年(昭和47年)10月20日 - 営団地下鉄(後の東京地下鉄)の明治神宮前駅が付近に開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道の駅(山手線所属)となる。
1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に認定される。選定理由は「神宮の森とマッチしている西洋風の駅舎」。
2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。

その他 [編集]
JRの長距離乗車券の東京都区内および東京山手線内に属する。
臨時ホームの渋谷寄りには、原宿野草園やミニ原宿村といった古い民家のミニチュアが設置されている。
山手線の次駅案内放送では、連絡運輸を行っている明治神宮前駅について、千代田線しか案内されない(同駅に接続する副都心線が渋谷?池袋間でJRと競合しているため。逆に同線では案内される。ただし、当駅の案内サインには副都心線の表記がされている。)。

隣の駅 [編集]
東日本旅客鉄道
■山手線
渋谷駅 - 原宿駅 - 代々木駅

2009年03月06日

コルベット(Corvette)

コルベット(Corvette)は近世から近代にかけて用いられた帆柱が3本の軍艦で、一層の砲甲板を持つ。大きさはフリゲートよりも小さかった。18世紀末から19世紀にかけてフリゲート同様商船の護衛や沿岸警備等に使われたが、海防艦などにその任を譲り、20世紀前半に消滅した。

なお、フリゲートの項でも述べられているが、コルベットのことをコルベット艦と称することがある。
帆走時代のコルベットは、スループと似たより小型の戦闘軍艦であった。主な仕事は沿岸部のパトロールであった。戦闘に参加するときは比較的小規模なものか、あるいは大きな艦隊をサポートすることが主務であった。1650年にイギリス海軍で原型となる船が使用されたときには「スループ」と呼ばれており、1670年にフランス海軍で初めて「コルベット」と呼ばれた。イギリス海軍ではスループとコルベットの大きさの基準が明確ではないため、ナポレオン戦争の後までスループという言葉を用いた。

17世紀のコルベットは長さが12?18メートル、重さが40?70トンのものが主流で、甲板には4?8の大砲を備えていた。時間を経るごとに「コルベット」と呼ばれる船のサイズは大きくなっていき、1800年までには長さ30メートル、重さ400?600トンになっていた。最大のものは1855年に製造された54メートルで24の大砲を備えたアメリカのConstellationであった。Constellationはその大きさから、フリゲートもしくはスループと見なす専門家もいた。
ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム

蒸気船時代
蒸気船時代のコルベットは、帆走時代に比べて非常に速く、操作が楽であった。この時代のコルベットの多くは、極東やアフリカにおいて入植する任務に使用された。
第二次世界大戦以降
ポルトガル海軍のコルベット第二次世界大戦のイギリス・カナダ・イタリアにおいて、機雷掃海や対潜水艦用の艦艇として開発された小型の艦にコルベットの名称が与えられた。フラワー級コルベットは第二次世界大戦の大西洋において30隻以上のUボートを撃沈し、この種の艦の有用性を示した。コルベットは現代、爆雷や魚雷、ミサイル並びに小口径の砲で武装し、主として哨戒任務に就いている。排水量は1000t前後。フリゲートほどの汎用性は持たないものの建造費用がそれほどかからないので、多くの海軍で用いられている。

排水量が小さく外洋航海にはあまり向かないため、海上自衛隊では1000t前後かそれより小さい護衛艦は用いられていない。(1隻だけ建造されたいしかりが最小の護衛艦だが、凌波性の不足、艦体の余裕のなさからすでに退役している)


2009年02月14日

ボクのヒミツたいけん

主人公「佐伯章」が様々な舞台で「ヒミツたいけん」をしてしまうエッチコメディものとなっている。本作も同社他作品同様、おとなしい主人公があれこれいろんなことをされてしまう展開となっている。

作中で主人公の年齢は明記されていないが、夏休みの家庭訪問など、小中学生を思わせる演出が一部に見られる。
キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

佐伯章(さえきあきら)
シリーズ作品通しての主人公である。同社他作品に漏れずおとなしい性格で、一人称は「ボク」。可愛い顔と断りきれない性格のため、様々な場面で女の子に迫られ「ヒミツのたいけん」をしてしまう。

友田順平(ともだじゅんぺい)(声:児玉さとみ)
シリーズ作品通して登場する、主人公の男友達。
主人公の母が単身赴任の父のところに行くこととなり、主人公は親戚のおばさんの家で過ごすこととなった。そこで友達になった子と「ヒミツたいけん」をしてしまう。
佐伯雪(さえきゆき)
お世話になる親戚の娘。主人公とは従妹にあたる。主人公のことを「章」と呼び捨てか「あんた」と呼び、無愛想な性格だが、内心は主人公と一緒にいたいと思っている。第2作にも登場する。
中島和子(なかじまかずこ)(声:北都南)
雪の友達、成美の妹。眼鏡っ娘でおせっかいな性格。第2作にも登場する。
佐伯由美(さえきゆみ)
お世話になる親戚のおばさん。
野中美子(のなかよしこ)(声:日向裕羅)
順平の通う塾の先生。
中島成美(なかじまなるみ)(声:金田まひる)
和子の姉。
石黒真樹(いしぐろまき)(声:鳥居花音)
成美の友達。

主人公の住む街に、前作で友達になった3人組(雪、和子、順平)が遊びに来ることに。(今回も前作同様)主人公の母が不在のため、隣家のお姉さん達に子供達の面倒をお願いすることとなった。クラスメイトやクラスの担任の先生なども交えて、また「ヒミツたいけん」をしてしまう。

大迫美姫(おおさこみき)
章のクラスメイト。
佐川佑二(さがわゆうじ)
章のクラスメイト。
音無喜久子(おとなしきくこ)
章の隣家の娘。奈緒子の姉にあたるが年齢的にはかなり上。
音無奈緒子(おとなしなおこ)
章の隣家の娘。喜久子の妹。
友成真弓(ともなりまゆみ)
章のクラスの担任の先生。
塚本かなこ(つかもとかなこ)
真弓の同人仲間。
中山ちはる(なかやまちはる)
かなこのアシスタント。

主人公+いつもの3人組で、順平の親戚の家に遊びに行くことに。順平以外の2人は都合行けなくなり、順平と2人で順平の叔母が経営する酒田旅館に訪れる。そこでもまた「ヒミツたいけん」をしてしまうのであった。

酒田幸枝(さかたゆきえ)
今回お世話になる酒田旅館の女将。地元では美人の未亡人女将として知られている。
酒田かのこ(さかたかのこ)
酒田旅館の娘。
奥野千歳(おくのちとせ)
矢多良神社の巫女。かのこの友達。
坂上由紀子(さかがみゆきこ)
近くの村に住む女の子。
坂上幸雄(さかがみゆきお)
由紀子の弟。村ではガキ大将で通っている。
林健一(はやしけんいち)
幸雄の舎弟。
ななせ
村で出合った謎の少女。

2009年01月28日

薩軍主力北部進出と長囲策

薩軍は少ない大砲と装備の劣った小銃で、堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるなど無謀この上もない作戦を採用した。したがって2月21日から24日に至る薩軍の攻撃は悉く失敗しただけでなく、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗して、24日以後は両軍の対峙状態に陥った。そこで、薩軍は南下してくる官軍、また上陸してくると予想される官軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城強襲策を変更して長囲策に転じた。植木方面、木留・吉次方面、鳥巣方面、熊本方面では引き続き官軍と薩軍の攻防戦が繰り広げられ、2月20日?27日には熊本方面、3月1日?31日には田原・吉次方面、3月10日?4月15日には鳥巣方面、3月4日?4月15日には植木・木留方面で激しい戦闘が行われた。なお、この間および後に薩軍に荷担した九州諸県の各隊は、貴島隊(隊長貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2,000名)を除けば、大約以下の通りである。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

党薩諸隊 ( )内は主な隊長・指揮者
熊本隊(池辺吉十郎)・熊本隊一番小隊長(佐佐友房) ─ 約1,500名
協同隊(平川惟一・宮崎八郎・崎村常雄)(隊員高田露・有馬源?・野満安親・野滿富記)  ─ 約500名
滝口隊(中津大四郎) ─ 約200名
飫肥隊(伊東直記・川崎新五郎・小倉處平) ─ 約800名
佐土原隊(島津啓次郎・鮫島元) ─ 約400名
人吉隊(神瀬鹿三・黒田等久麿・村田量平) ─ 約150名
都城隊(龍岡資時・東胤正) ─ 約250名
報国隊(堀田政一) ─ 約120名
高鍋隊(石井習吉・坂田諸潔) ─ 約1,120名
中津隊(増田宋太郎) ─ 約150名
延岡隊(大島景保) ─ 約1,000名

高瀬付近の戦い
高瀬付近の戦い
戦争:
年月日:1877年
場所:
結果:官軍の勝利
交戦勢力
第1、2、3旅団(官軍) 薩軍
指揮官
野津鎭雄
乃木希典など 桐野利秋など
戦力
不明 約2800人
損害
‐ ‐

2月24日、第一旅団(野津鎭雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は相次いで南下中であった。久留米で木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。第十四連隊(乃木少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。25日、第十四連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。山鹿方面では第三旅団の先鋒1箇中隊の増援を得て24日に転進して来た野村忍介の5箇小隊と対戦することになったが、高瀬道を進んだ部隊は薩軍と戦闘をすることもなく高瀬を占領した。

この時の薩軍の配置はほぼ以下のようになっていた。

山鹿 ─ 野村忍介(5箇小隊)
植木 ─ 越山休蔵(3箇小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
伊倉 ─ 岩切喜次郎・児玉強之助ら(3箇小隊)、佐々友房ら(熊本隊3箇小隊)
これに対し、官軍の征討旅団は順次南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。

官軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た第十四連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。

2月26日、越山の3箇小隊は官軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3箇小隊及び岩切・児玉らの3箇小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。

薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬及び高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。

右翼隊(山鹿方面) ─ 桐野利秋(3箇小隊約600名)
中央隊(植木・木葉方面) ─ 篠原国幹・別府晋介(6箇小隊約1,200名)
左翼隊(吉次・伊倉方面) ─ 村田新八(5箇小隊約1,000名)
これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断にもとづき、次のように部署を定めた。

第一陣
前駆 ─ 乃木希典少佐(4箇中隊)
中軍 ─ 迫田大尉(2箇中隊)
後軍 ─ 大迫大尉・知識大尉(2箇中隊)
第二陣
予備隊 ─ 長谷川中佐(4箇中隊)
山鹿方面守備隊 ─ 津下少佐(3箇中隊)
応援(総予備隊) ─ (2箇中隊、1箇大隊右半隊)
薩軍の右翼隊は未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の官軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で官軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。官薩両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦がおこなわれた。

午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第二旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎮雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている[3]。

右翼隊の左縦隊は官軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た官軍中央諸隊は反撃に出た。西?小兵衛・浅江直之進・相良吉之助三小隊も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまったので、大浜方面へ退却した。官軍も疲労で追撃する余裕が無かった。この方面の戦闘は激戦で西?小兵衛以下、薩軍諸将が戦死した。

田原坂・吉次峠の戦い
3月1日から3月31日まで、現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。

官軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。主力は田原坂・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むためにおかれた。しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と、抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。

白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが、討ち破られたため、3月13日、新たに警視抜刀隊を組織した。3月14日、官軍は田原坂攻撃を開始したが、結局横平山を占領することはできなかった。しかし、警視抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かった。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて有名な抜刀隊の歌が作られた。

官軍は3月15日、薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。3月16日は、戦線整理のために休戦した。3月17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。この間、3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名にのぼった。

官軍主力隊本営では3月18日、野津鎮雄少将(第一旅団長)・三好重臣少将(第二旅団長)、参謀長野津道貫大佐、高瀬征討本営の大山巌少将などによって幕僚会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするためにおこなわれた。これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。

20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。官軍の攻撃を成功に導いたのは別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。これによって官軍主力は「田原坂突破」一本に的を絞ることが出来た。しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。

官軍・薩軍の田原坂での攻防は17日間続いた。植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られた。その後、官軍は田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。

3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも現地では当時の銃弾が田畑や斜面からしばしば発見されている。薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。田原坂の激戦は官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。